国鉄労働組合と三鷹事件について

T 三鷹事件のあらまし
  1949年7月4日、当時の国鉄(現在のJR)当局は、国鉄労働者3万7千人の首切りを第一次とし続く同月13日に第二次として6万2千人の追加首切りを発表しました。その直後の15日夜、中央線三鷹電車区構内に停車中の7両編成の無人電車が暴走し、三鷹駅構内の車止めを突破し民家に突入、乗客6名の死者と20人近い重軽傷者が出ました。
 この事件の30分後には、「共産党の計画犯行だ」というデマ宣伝がやられ、翌16日には原因も未解明のまま当時の吉田内閣は「思想的背景をもった悪質な犯罪」とする声明を発表し、国労三鷹電車区分会を中心に強制捜査が行われました。7月17日以降、国労分会長の飯田七三氏他12名の組合幹部や活動家が逮捕・起訴されました。しかし裁判の結果は、飯田氏以下すべての共産党員であった被告は、無罪となりましたが、権力の謀略的な脅迫の元で供述が二転・三転した竹内景助氏は、最終的には、無実を主張し続けたにもかかわらず最高裁は8対7の一票差で死刑を確定しました。
 竹内氏は、1956年に東京高裁へ再審申し立てをし、その開始直前の1967年1月18日、東京拘置所内にて病気のため獄死しました。その後、遺族による獄死の責任を問う国家賠償請求訴訟が闘われ、1974年に全面勝利しました。

U 三鷹事件の背景
1945年の終戦から52年のサンフランシスコ条約の発効まで続く連合国による対日占領は、事実上アメリカの単独占領と云われるものでした。その占領政策は、ポツダム宣言にもとずく日本の民主化・非軍事化を任務として出発したが、その後の冷戦の激化、中国革命の進行などから48年には日本の再軍備や改憲を目指すものへと変化しました。その結果47年の「2・1ゼネスト」は、占領軍命令により中止されたが、これは、労働運動の「育成から統制への転換」を示すものでありました。また、A級戦犯容疑の岸信介らが釈放され49年2月には戦争犯罪を裁く東京裁判は、打ち切られました。
 更に、敗戦後の日本経済は食糧難に加え破局状態にあり、これを打開するための一つとしてマッカーサー書簡が発せられ、これを受けた政府は、政令201号を公布・施行し、官公労働者の争議権を剥奪するなどの法律制定に着手しました。この時期日本の労働運動は、着実に高揚時期を迎え権力を司る勢力は、これに対し危機感を持っていました。



V 三鷹事件と国労
(1) 鉄道三大謀略事件と国労
マッカーサー書簡を受けた政府は、1949年6月1日、行政機関職員定員法や公共企業体労働関係法などを制定・施行し、国鉄は公共企業体として発足し、初代国鉄総裁には下山定則氏が就任しました。
 国労は、6月23日〜26日熱海にて第15回中央委員会を開催し、定員法による大量首切りに対し「ストを含む実力行使」で闘うことを決議しました。
 7月1日、運輸大臣は、国鉄当局に95085人の整理基準を提示し、これを受けた当局は、同月4日、約37000人の第一次整理通告を行い団交は一方的に打ち切られました。
 翌5日下山総裁は行方不明となり、6日未明に常磐線綾瀬駅付近で轢死体となって発見されました。(下山事件)。続く12日、第二次整理通告として63000人の名簿が発表、順次首切りが行われました。しかし国労は、15日に発生した前述の三鷹事件によりこの攻撃に対し有効な反撃はできませんでした。「事件」直後国労は、被解雇者の中央闘争委員の扱いをめぐり「指令0号」が出され分裂状態に陥り、諸要求実現をめざす闘争力を回復するには、その後多大な歳月を要することを余儀なくされました。
 更に8月17日、東北線松川駅近くで旅客列車が脱線転覆し機関士3名が死亡した「松川事件」が発生しました。国鉄と東芝の労働者20名が犯人として逮捕・起訴されましたが、国民的救済運動の力などにより1963年に全員の無罪が確定しました。これら3つの「事件」の真相は、今日に至るも解明されていません。

(2) 三鷹事件と国労
 「事件」発生間もなく国労の三鷹・中野両電車区分会執行委員長他20名近くが逮捕され12名が共同犯行として起訴されました。その裁判の経過は以下の通りです。
1950年8月 第一審判決、検察側主張の共同謀議・犯行は「空中楼閣」と断定、竹内被告の単独犯行とされ、同人を無期懲役、他は全員無罪。
1951年3月 第二審判決、事実調べなしに竹内景助氏に死刑
1955年6月 最高裁 弁論なしのまま8対7の1票差で竹内氏の死刑確定
1955年7月 第6回総評大会「三鷹事件公正裁判請願」運動支援決議。また国民的な「助命嘆願署名」80万人を超える。
1956年2月 竹内氏、東京高裁に再審申し立てする。
1966年12月 竹内氏、頭痛発症、治療要求も拘置所当局は放置。
1967年1月 竹内氏、東京拘置所で獄死(脳腫瘍)享年45歳
1974年5月 竹内氏獄死の責任を問う遺族による国家賠償請求訴訟全面勝利
 以上の裁判闘争に際して国労は、三鷹電車区分会や全国電車協議会を中心に1962年に国民救援会内に結成された「三鷹事件対策協議会」、武蔵野・三鷹地区労働組合協議会とともに竹内氏の再審請求の署名運動をはじめ「アリバイ証言」を求めるなど救援運動に積極的な役割と努力を重ねました。また1967年初、竹内氏の病状悪化に際しては、国労三鷹電車区分会として組合員を拘置所に派遣し厳寒の待合室に泊まり込み当局に抗議するとともに回復を祈りました。葬儀とともに、国家賠償訴訟や墓石建立などに際しても関係者との協力に尽力いたしました。その後も一審の被告とされた元組合員とともに、事件発生の節目毎に交流・記念行事集会などを行ってきました。
 国労は、八王子地区本部・分会を中心に事件発生60周年の今、55周年の集会で申し合わせが行われた「事件」の犠牲者を追悼し、歴史の真実を後世に伝え風化させないために「モニュメント建立」の運動をしています。

投稿者
元国労三鷹電車区分会
分会長 宮本二郎(OB)